漁師の町、勝本浦を歩く(天が原から馬場先まで)

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勝本浦のご案内

勝本イルカパーク
かつてはイルカと一緒に泳げる「スイミング」も今は都合で中止になりましたが、エサの時間(10時と14時)やジャンプのトレーニングの時間はその迫力や大きさにワクワクします。日常、ココまで間近にイルカを見られることってありませんよね。詳しい内容は写真を併せて別ページで詳しく紹介しています。

串山海水浴場・磯あそび会場
イルカパークから西へ坂を越えると串山海水浴場。砂浜ですが両脇の山の砂岩の砂でやや粒が大きい。大潮の時は根島で、磯あそびが行われています。こちらも詳しい内容は写真付き、別ページで詳しく紹介しています。

クジラ組土肥家屋敷跡・あほう塀
かつて江戸時代まではクジラで賑わった勝本の港も今はイカ釣りの小型漁船でいっぱいです。鯨漁に関わる人は一つの組で1,000人近いそうです。勝本の鯨組は二つで「ながとり」「どい」が頭でした。現在の勝本診療所あたりはそのむかし、鯨組頭「どい」の屋敷があった場所で、現在はその名残の塀垣が残っています。盛者必衰、強者どもが夢のあと…。余談ですがこの場所には終戦後までいわゆるアカセンがあったそうです。私が生まれる前のことで通ったことはありませんが、まだちっちゃい頃、漁師のヨメにしてはどこか違う、勝本のおばちゃんとは色のちがう若妻がおいでになりました。あとで知ったのですがそこで働いていて漁師に惚れられて一緒になった女性だということです。漁師と遊女の恋物語。映画になりそうな題材ですね。

長四郎の墓(子供の海難加護)
天保のころ、わずか七歳の漁師のせがれ長四郎が、釣り竿抱えて坂道を走りくだり、通りかかった平戸藩家老行列の前を横切ったそうです。行列の中の若侍がその子供を追いかけました。は泣き叫びながら沖の瀬まで逃げましたがとらえられ、首をはねられた事件があったそうです。村人は長四郎を哀れに思い、沖の瀬にねんごろにほ葬ったところ、子供の海難事故がなくなったそうです。そういえば、私も18年勝本にいましたが子供がおぼれてなくなったって話は聞いたことがない。毎年夏にあちこちでおぼれる話がニュースになるのに、こんだけ周りは海の勝本で子供がおぼれ死んだ話は聞いてない。(代わりに出漁したまま帰ってこない男たちは多い。親戚や同級生も含まれます。)
沖の瀬は湾岸小路で埋め立てられ、墓標は現在の勝本漁協の近くに移されています。前を通ったらお参りしてね。

勝本朝市
江戸時代から続く素朴な朝市。小さい頃よく食べていた瓜やあべんきょうがあるんですよ。田植えダゴなんてものは涙が出るほど懐かしい。それにイナカソバもここで買えます。もちろん新鮮な魚やサザエ、一夜干しも。ウニとイカをあえた「いかうに」が土産に好評とのことですが、この町で育った者にとって「さくら干し」や「ありまとう」が一番のごちそう。そういえば林田の天ぷらはまだあるのかな?「さくら干し」や「ありまとう」、「林田のてんぷら」とくれば「かすまき」も書かなきゃいけません。昔は川島のかす巻きが一番でした。最近は土肥さんが有名になって川島さんをあまり聞きませんがまだ続いているでしょうか。松屋のあんパンもおいしかった。続いてこれもイチオシ「布谷の醤油」。漁師の町で漁師が育てた地元のブランドです。刺身には布谷の醤油でなければと絶対の評判。

諏訪大社の御柱
長野県諏訪生まれで芭蕉の弟子であった俳人河合曽良がこの地で果てたのがきっかけで、近年諏訪市と友好都市になり、諏訪大社の御柱が勝本に届けられました。あまりに長く運搬に支障が出たため、先端近くを最小限切断したものが朝市入り口の祀られています。本体は城山公園に立っています。

焼酎製造
ほんの30年ほど前まで、この漁師町に造り酒屋が三軒もありました。だいたい察しがつくでしょうが、漁師は何かに付けて酒を飲みます。酒といってももっぱら焼酎です。麦焼酎発祥の島としての評価、焼酎ブームがここまで大きくなる前は焼酎呑む人が少なかったもんねえ。現在は勝本に酒造場・蔵元はありませんが大きな屋敷にその面影が残っています。勝本では原田姓の大きな屋敷を持った家が多く見られます。後述の永取家ももともとは原田姓だったそうです。クジラ組頭をつとめ、当時の平戸藩藩主から末永くクジラが捕れるようにと「永取」の名を賜ったとのことです。

平戸の領地であったにもかかわらず、壱岐の人は平戸のことは殆ど語らない。逆に、平戸の圧政についてのエピソードが先にお話しした「長四郎」や「百姓源三」などの話で伝えられています。壱岐は本来一つの國であって平戸は単なる島にすぎなかった。鎌倉後期以降松浦水軍がその武力と才覚で時の将軍に認められ、江戸時代は平戸松浦藩に組み込まれた。(これが災いして今でも長崎県に編入されたままです。島民は博多がいいと思ってるのに。)平戸一帯は米作に適した耕地が少なく、広大な平野を持つ豊かな壱岐はその米の殆どを年貢に取られた。農民は仕方なく雑穀を食料とした。米が島内で消費されていれば壱岐は福岡や佐賀と同じ清酒文化圏になっていたでしょう。沢山できても取り上げられてしまって米がなかったから麦でお酒を造った。これが麦焼酎発祥につながるってわけ。ちょっと長すぎたかな?「百姓源三」についてはまたの機会にね。

永取家・泉屋商事
どの地方のどの町にも村にもそれぞれの歴史があり、その時代に栄えた家がありますが、鯨組の頭をつとめた永取屋敷も今は普通の民家として残っています。多分代々伝えられた貴重な書物や道具があるんでしょうがほとんど公開されておりません。一部は宗像大社に寄贈されたとか聞いています。まだ残っていたらいつか見せてチョウダイ。そのすぐ近くに泉屋商事。ここ中央部黒瀬地区は昭和30年ぐらいまで博多航路の客船が就航する桟橋があり、賑やかな町でした。ドラがなって、蛍の光がなって、紙テープが船と陸の間に何十本も翻っていた光景を覚えています。勝本に漁船が増え、貨客船から大型フェリーの時代になって勝本に客船が就航できなくなりました。海運で栄えた泉屋商事もなくなりました。

朝鮮通信使接待所
江戸時代に朝鮮國の使節が江戸に向かう際は対馬・壱岐を伝って本州に向かいました。そのさい、朝鮮使節は一番近い勝本に降り立って休憩したようです。現在は小さな阿弥陀堂になっています。阿弥陀さんの日には町内の婆ちゃんたちが寄って信者講とか言うのが催されていました。オアミダサーの日は子供が行くと赤飯のおにぎりとタクアンをくれるんです。子供の頃はオアミダサーが何のことかわからず、ただおにぎりをもらえる嬉しい日かと思っていましたが、旅の途中で亡くなった朝鮮人使節随行員の供養にもなっていたんですねえ。

聖母神社
この阿弥陀堂のすぐそばに、勝本鎮守の聖母神社(しょうもじんじゃ)があります。離島の漁師町のお宮としてはかなり書くが高いらしく、正式には聖母宮(しょうもぐう)です。宮司さんは吉野さん。この一家の顔立ちがいいんですよ。特にいくつか年上の女性がおいでになりましたが、中高の美形でした。秀吉にまつわる茶壺があるとか。こどもの頃はこの境内で遊んでいました。大晦日に紅白が終わるとまずはこの聖母宮へ初詣に行くのが年の初めのしきたりでした。神宮皇后の朝鮮出兵に際して風待ちをしたことから「風本」と呼ばれ、凱旋の途中立ち寄って、勝利を祝って「勝本」と呼ぶようになったということです。出兵に際して馬上から遠く朝鮮の方向を臨んでいると、愛馬に神宮皇后の気合いが移って、馬が岩を強く踏みつけたヒヅメ跡とされる馬蹄石があります。

辰の島(環境省選定・日本の快水浴場百選)
勝本港を守るように湾の北側に並ぶ3島の内、最も美しい海水浴場と最も険しい断崖絶壁を持つのが辰の島。本来は国定公園の無人島ですが夏の間だけ一般に開放されます。壱岐で美しい浜として知られる石田町の筒城浜より透明度が高く、遠浅な砂浜は砂の粒が細かく白いのが特徴。左枠から辰の島をクリックして美しい渚と険しい断崖絶壁・奇岩をご覧下さい。勝本漁協ビクトリーが島巡りに案内してくれます。

勝本を牽引する起動車達
漁業が盛んな漁師の町で、後継者問題もさほど深刻ではありませんでしたが、世界的な漁獲量の減少は勝本も例外ではなく、高校進学後、町に残る青年が少なくなっています。そんな中で勝本を盛り上げる人が出てきました。勝本観光協会会長になって町の活性化に打った手は「磯あそびin勝本」。話題になっています。勝本に人が来ます。福岡・九州はもちろん、全国ネットでも放映されます。実際に協会が利益を上げるのはまだ先のことになりそうですが、このアイ

 

 


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